เข้าสู่ระบบ四つの皿がテーブルに置かれると、立ち上る湯気が、張り詰めた空気をわずかに白く滲ませた。
鼻孔をくすぐるのは、熱せられたバターと卵の甘い香り。そして、焦がしたデミグラスソースの奥から漂う、ふくよかで芳醇な匂い。 それは、生活感の一切を排除したモデルルームのようなこの部屋には、あまりにも不釣り合いなものだった。どこか懐かしく、胸の奥をキュッと締め付けるような「家庭」の匂いが、冷たいリビングを侵食していく。「……オムライス、か」 華枝様が、物珍しそうに皿を覗き込んだ。 その声に咎めるような響きはない。むしろ、格式張ったフレンチか懐石でも出てくると思っていたところに、予想外の球を投げ込まれたような、純粋な驚きが混じっていた。「はい。……お誕生日といえば、やっぱりこれかなと思いまして」 私は努めて声を張り、湊の前にカトラリーを並べた。 湊は動かない。 まるで金縛りにでもあったかのように、目の前の皿をじっと見つめたまま、指一本動ローテーブルの前に歩み寄り、その契約書を見下ろす。 たった数ヶ月前のことなのに、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。 相手の素性もよく分からず、ただ見栄を張りたいという目的から始まった、書類上の繋がり。「……今見ると、本当に冷たい文面ね。感情の欠片もないわ」「僕が作成させたものだからな。法務の人間が書くような、血の通っていないただの契約だ」 湊が、ソファの背もたれに手をつき、契約書を見下ろしながら自嘲気味に口角を上げた。「この契約書で、君の自由を奪った。君が危険な目に遭うと分かっていながら、巻き込んでしまった。……あの日、君がこの紙にサインをした時、君の指先が震えていたのを覚えている。僕はそれを都合よく利用したんだ」 湊の漆黒の瞳が、痛みを堪えるようにわずかに細められる。「……湊」 ローテーブルを回り込み、湊の正面に立つ。 視線を真っ直ぐに絡め合わせる。「確かに、最初はそうだったかもしれない。月額三百万円というお金が絡んでいたのも、見栄を張るためにあなたを利用したのも事実よ」 湊の大きな手が、ソファの背もたれを強く握りしめているのが見えた。指の関節が白くなっている。 その手に、自分の手をそっと重ねた。「でも、この契約書があったから、私たちは同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、互いの本当の顔を知ることができた。……あなたがどれだけ不器用で、優しい人なのかを」 重ねた手に力を込めると、強張っていた指先が、わずかに緩んだ。「この紙切れは、私にとって『鎖』じゃなかった。……足元が崩れ落ちそうになっていた私に、あなたが差し出してくれた『命綱』だったのよ」 息を呑む音が、静かな空間に落ちた。「……朱里」「記者会見でも言ったでしょう。私は、過去の愚かな自分を否定しない。……この契約書があったから、今の私たちがいる。この事実を、私は誇りに思うわ」
耳がわずかにツンとするほどの速度で上昇していく密室の中、湊の視線がずっとこちらに向けられているのを感じていた。「……何? 顔に何か付いてる?」「いや。……麗華の言う通り、これ以上のドレスはないと思って見惚れていただけだ。その色、君の肌によく似合っている」 耳の奥がカッと熱くなる。 真っ直ぐすぎる言葉に、どう返していいか分からず、ただ視線を足元の絨毯へと逸らした。 ピン、という電子音が鳴り、エレベーターの扉が開く。 毛足の長いフカフカの絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、一番奥の重厚な木製のドアの前に立つ。 湊がカードキーをかざすと、カチャリという軽い金属音が鳴り、ロックが解除された。 ドアを開け、一歩足を踏み入れる。 室内の照明は落とされており、壁一面の巨大な窓ガラスいっぱいに、東京の夜景が宝石箱をひっくり返したように広がっていた。 赤や黄色のテールランプが、動く光の川となって首都高を流れている。「わあ……」 思わず声が漏れる。 靴を脱ぐのも忘れ、窓際へと歩み寄る。 足元の絨毯がハイヒールの音を吸い込み、静寂だけが部屋を支配していた。 ガラスに額が触れそうなくらい近づくと、眼下に広がる途方もない光の粒に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。「……あの日も、この景色を見たわね」 窓ガラスに反射する自身の姿。ミッドナイトブルーの生地が、夜の闇に溶け込むように同化している。「ああ。君はあの時、この窓際で肩を震わせていたね」 背後から、低い声が降ってくる。 振り返ると、湊が上着を脱ぎ、ネクタイを外し終わったところだった。 第一ボタンを外した白いシャツの胸元から、鎖骨の硬いラインが覗いている。 湊は、窓際から数歩離れたリビングスペースのローテーブルへと歩み寄った。 そして、脱いだばかりのジャケットの内ポケットに手を差し込む。 ガサリ、と。 静かな部屋に、少し古びた紙が擦れる
真っ白に弾けるフラッシュの波が、網膜の裏側に焼き付いては消えていく。 カシャカシャという硬質なシャッター音が、幾重にも重なって鼓膜を打ち据える。 無数のレンズの放列の前に立ち、ミッドナイトブルーのシルクドレスの裾をわずかに引いて姿勢を正す。隣に立つ濃紺のスーツの袖が軽く触れ、そこから伝わる岩のような硬い熱が、背筋を真っ直ぐに支えていた。 飛び交う無遠慮な声や、好奇の視線。だが、そこに張り詰めたような焦燥はもうない。 肺の奥までゆっくりと空気を吸い込み、口角を上げてカメラの光を真っ向から受け止めた。 ◇ メインホールの喧騒を抜け、地下駐車場で待機していたハイヤーの後部座席に滑り込む。 重厚なドアがバタンと閉まり、外界の騒音が分厚いガラスの向こう側へと完全に遮断された。 革張りのシート特有の、少し甘く沈むような匂い。 深く息を吐き出すと、ピンと張り詰めていた肩の筋肉が、じんわりと熱を持ちながら緩んでいくのがわかった。 隣に座る湊もまた、ネクタイの結び目をわずかに緩め、深くシートに背中を預けていた。 街灯のオレンジ色の光が、一定の間隔で車内を横切り、彫りの深い横顔に陰影を落としては消えていく。「……お疲れ様。見事な立ち回りだった」 低い、少しだけ掠れた声が車内の静寂に溶ける。「湊こそ。……あんな風に、自分で全部被るようなこと言うなんて反則よ。本当に、心臓が止まるかと思ったんだから」「事実を述べたまでだ。僕が強引に巻き込んだ。……あの契約を持ちかけたのは、間違いなく僕なのだから」 湊の大きな手が、シートの上でそっとこちらの手に重なる。 指を絡ませると、少しだけ体温が上がったような気がした。 流れる窓の外の景色を見る。 見慣れた高層ビル群のネオンが、冬の澄んだ空気の中でチカチカと瞬いている。 車は本邸がある方向とは違う、都心の中心部へと滑るように走っていた。「……本邸には、もう戻らなくていいの?」
廊下の壁に背を預けていた湊が、扉の開く音に気づいて顔を上げた。 視線がぶつかる。 湊の動きが、完全に止まった。 少しだけ壁から背中を離し、息を呑むような微かな音が、静寂の廊下に落ちる。 その漆黒の瞳が、ドレスの裾からウエスト、そして顔へとゆっくりと上がってくる。 瞬きすら忘れ、ただ一点を見つめるその眼差しには、隠しきれない熱と、圧倒されたような驚きが混じっていた。「……どうかしら」 一歩踏み出し、ドレスの裾をわずかに翻す。 湊は数秒の沈黙の後、深く息を吐き出し、そして柔らかく、ひどく甘い弧を唇に描いた。「……言葉にならない。ただ、これ以上の『王妃』は、世界中のどこを探しても見つからないと確信したよ」 湊が歩み寄り、差し出された大きな手が、ドレスの袖口から覗く手首をそっと包み込む。 親指の腹が脈打つ部分をなぞり、そこから流れ込んでくる熱が、ミッドナイトブルーの戦闘服にさらなる命を吹き込んでいくのを感じた。「ふん。当然よ。私の最高傑作なんだから。……さあ、さっさと行きなさい。あんたたちの顔を見てたら、こっちまで胃がもたれてきそう」 控室の入り口で、麗華が腕を組みながら呆れたようにため息をついた。「麗華さん、本当にありがとう」「感謝の言葉より、次期コレクションのスポンサー料を弾むよう、そこのCEOに言っておいてちょうだい」 麗華はヒールを鳴らし、振り返ることなく廊下の奥へと歩き去っていった。 真紅の背中が、角を曲がって見えなくなるまで、その足音は誇り高く響き続けていた。 廊下には、再び二人の時間と静寂が戻った。 湊の指が、手首からゆっくりと滑り落ち、指の間に深く絡み合ってくる。 関節同士が隙間なく噛み合い、岩のように硬く温かい感触が手のひらを満たした。「……行こうか。世界中の誰よりも美しい、僕の本当の妻を、彼らにお披露目する時間だ」 湊のエスコートで、再び
その指先には、ミシンの針で刺した小さな傷跡や、生地と擦れてできた固いタコがいくつも刻まれていた。 かつて、完璧なネイルアートで飾られていた令嬢の指は、今や完全に職人のそれへと変貌している。「……着てみなさい」 促されるまま、今まで着ていたスーツを脱ぎ、ミッドナイトブルーのドレスに袖を通す。 肌に触れた瞬間、生地が吸い付くように身体のラインに沿っていくのがわかった。 背中のファスナーを麗華がゆっくりと引き上げる。 ジリッ、という音と共に、背筋が強制的に、しかし心地よい圧迫感を持って引き伸ばされた。 ウエストのドレープが骨盤の位置にピタリと収まり、足を踏み出すたびに、裾が波のように静かに揺れる。 大きな姿見の前に立つ。 鏡の中にいたのは、見慣れた自分でありながら、まったく別の気配を纏った女性だった。 肩のラインは気高く張り、首筋は真っ直ぐに伸びている。 深く沈んだブルーの生地が、肌の白さを際立たせ、瞳の奥の光をより強く反射させていた。 弱さも、見栄も、過去の傷跡も。 そのすべてを内包した上で、前を向いて立つための服。「……すごい。身体の芯から、力が湧いてくるみたい」 自分の声が、驚くほど澄んで響いた。 麗華は鏡越しにその姿を見つめ、満足げに、そしてほんの少しだけ誇らしげに口角を上げた。「当たり前よ。私が仕立てたんだから。……言っておくけどね、私は惨めな女に着せる服なんて作らないわ。敗北に酔いしれて、下を向いて泣いているような女には、私の服を着る資格はない」 麗華が背後に立ち、肩口の生地のシワを手のひらで軽く伸ばす。 その確かな力強さが、肩から背中へと伝わってきた。「私が縫うのは、勝つ女の服だけよ。……あんたは今日、自分の過去に勝った。だから、この服を着る資格がある」 胸の奥が、熱い塊で塞がれる。 かつて、婚約パーティーで私を見下し、シャンパンを片手に嘲笑っていた
大理石の廊下を、三人の靴音がリズミカルに叩いていく。 先頭を歩く真紅のパンツスーツの背中は、一切の迷いなく一直線に控室へと向かっていた。 漂ってくるローズとムスクの香りが、先程までの会見場に充満していた埃とインクの淀んだ匂いを上書きし、肺の奥をクリアにしていく。 指定されたVIP用の控室のドアノブに手を掛け、麗華が勢いよく扉を開け放った。「さあ、入って。……湊は外で待っていなさい。ここから先は、男の立ち入る場所じゃないわ」 麗華が振り返り、顎で廊下をしゃくった。 湊はわずかに口角を上げ、「任せるよ」と短く答えて廊下の壁に背を預けた。 その眼差しは、これから起こる変化を心待ちにしているかのように、穏やかで温かい光を湛えている。 控室の中は、間接照明の柔らかな光で満たされていた。 麗華は中央の広いテーブルに、抱えていた黒いガーメントバッグをそっと置いた。 その手つきは、まるで壊れ物を扱うように慎重で、かつて高級ブランドの紙袋を無造作に振り回していた頃の姿からは想像もつかない。 ジッパーの金具を指で摘み、ゆっくりと引き下ろす。 ジリジリという低い音が、静かな室内に響き渡る。「……会見の様子、ずっと裏のモニターで見ていたわ」 麗華はガーメントバッグを開きながら、ぽつりと呟いた。「見栄のためのレンタル。五百万円の偽装契約。……相変わらず、あんたの人生は泥臭くて、滑稽で、見栄っ張りね。呆れてため息しか出なかったわ」 厳しい言葉とは裏腹に、その声にトゲはない。「でもね、最後にあの泥人形たちを切り捨てた時のあんたの顔、……悪くなかった。這いつくばってでも自分の足で立とうとする、覚悟を決めた女の顔だったわ」 ガーメントバッグが完全に開かれ、中から一着のドレスが現れた。 思わず、息を呑んだ。 それは、決して派手な装飾が施されたものではない。 スパンコールも、過剰なフリルも、目を引くような鮮
完全に炭化した紙の残骸が、ボロボロと音を立ててクリスタル製の灰皿へ崩れ落ちていく。 カチャリ、と小気味よい音を立てて、湊の手の中でシルバーのジッポライターの蓋が閉じられた。 オレンジ色の炎が消えた直後の、焦げたインクと紙の匂いが、ホテルの控室にふわりと漂う。空調の微かな風に乗って、黒い灰の欠片が一つ、ガラステーブルの上へ舞い落ちた。 私は湊の胸元に寄りかかったまま、その小さな黒い染みのような灰をじっと見つめていた。 終わったのだ。 剛造が会場でばら撒いた『婚約者業務委託契約書』。私と湊を繋ぎ止め、同時に縛り付けていた絶対的な免
視線の高さが同じになり、黒曜石のような真っ直ぐな瞳が、至近距離で私を射抜く。 その目には、深い後悔と、隠しきれないほどの痛切な熱が満ちていた。「……志保からの手紙と、君の残したメモを読んだ」 その言葉に、私はハッと息を呑んだ。「君が僕を守るために、どれほどのものを一人で背負おうとしてくれたか。……それを知って、僕は自分がどれだけ愚かで、傲慢だったか思い知らされたよ」 湊は、私の手を握る力を少しだけ強めた。「君を遠ざければ守れるだなんて…&hell
彼はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイも外し、シャツの第一ボタンを開けた少し無防備な姿で、膝の上で組んだ両手をじっと見つめている。 前髪が少し乱れて額にかかり、その横顔には深い疲労の色が滲んでいた。 私が微かに身じろぎをした音に気づき、湊が弾かれたように顔を上げる。「……気がついたか」 掠れた、低い声だった。「湊……」 身体を起こそうとすると、彼がすぐに椅子から立ち上がり、私の背中に手を差し伸べてくれた。 大きな掌の熱が、ブラウス越しにじんわりと伝
見覚えのない、上質な和紙の封筒だ。 拾い上げ、裏返す。 封蝋の代わりに貼られたシールの端に、見慣れた、しかし見たくもない筆跡で、小さくイニシャルが記されていた。『S.K』 志保・九龍(Shiho Kuryu)。 継母だ。 なぜ、志保からの封筒がここに? やはり、朱里は志保と繋がっていたのか。 背筋が凍りつく。指先が震えた。 中を見てしまえば、僕たちの関係が本当に終わってしまう気がした。だが、見ないわけにはいかない。 僕は意を決して、封を開けた。 中から滑り







